不可能性(大澤真幸)

オタクたちは、ほとんど麻薬中毒者を連想させるようなやり方で、ゲームやアニメにはまる。彼らが求めているのは、ほとんど虚構の意味(物語)の理解を媒介としない、神経系を直接に刺激するような強烈さである。それは自傷行為へのアディクションに似ている。ここには、将来テクノロジーが発達すれば、自傷の代わりに、ニューロンに直接強い刺激を与えることに耽るアディクションが出てくるのかもしれない、と思わせるものがある。人間は、神経系を備えた生理的身体として、つまりは動物としてのみ生きている、というわけである。 ** もし、すべての個人の間に直接的で深い関係がなければ、活動的な民主主義は不可能だと言うことになれば、グローバルな社会の上にそれを構築することは絶望的である。しかし、今、小規模で民主的な共同体が分立しつつ、他方で、それらのどの共同体にも、外へと繋がる、外の異なる共同体(のメンバー)と繋がる、関係のルートをいくつかもっているとしよう。そうすれば、共同体の全体を覆う、強力な権力などなくても、何億、何十億もの人間の集合を、個人が直接に実感できる程度の関係の隔たりの中に収めることができるのだ。この直接の関係の上にこそ、述べてきたような活動的な民主主義を築き上げることができるのだとすれば、市民参加型でありつつ、なお広域へと拡がり行く民主主義は十分に可能だ、ということになるのではあるまいか。